繰り返してる事

新しい何かが世の中で現れた時に皆さんはどう対応されてるだろうか?

疑問が沸いた。

 

例えば自分の場合には「ガラケー」と呼ばれる一昔前の携帯電話を使ってた時に、友人が「スマホ」と呼ばれる携帯電話を使っていて、

 

それを見た時に「要らんやろそんなん」

 

と思ってしまったのだ。

 

で、今その"スマホ"をめちゃくちゃ使ってる自分がいる。

 

他の例で言うとyoutuberなんかは出現した当初

自分はめちゃくちゃ批判的に思っていた。

 

今では、「youtuber最高、なりてえな」

 

という変わりようである。

 

ここで疑問

 

「なぜ自分は新しい"何か"に対して否定的だったのか」

 

その答えは

 

「現状、自分にとって最高なものがあり、その最高なものを"愛"するが故、新しきモノに対しては排除したい」

 

という歪んだ気持ちだ。

 

その歪んだ気持ちを排除する為には

 

「自分の変な拘り」を捨て去り

「新しい何かを受け入れ」

「時の流れを意識し」

と同時に

「古き自分が最高だと思ったモノを否定せず」

 

前向きに時の流れを意識しながら

生きて行きたいなと思った。

 

TIKTOK??

 

うーむ最高。

窓を開ける

自分は煙草をよく吸うのでよく窓を開けてる。

今の時代は喫煙者には厳しくてベランダに出て吸うホタル族と呼ばれる人達も責められるのでいずれ、この先、窓開けて吸う人も責められるのだろうなと思う。

それまでには止める予定なのでもう少し猶予が欲しいとワガママをもう少しだけ世間様に対してお願いしたいところである。

 

さて、この窓を開けるという行為、

 

良いなあと思う。

 

その昔、日本国に置いて"鎖国"という時代があった。

 

外国人という新しい風を

一切シャットアウトしてこれは窓を閉めてる状態。雨戸だ。

 

鎖国してた時は国がもの凄く"安定"して

内部で江戸文化と呼ばれるようにみんなが「楽」だったんだろうなあと思う。

コミュニティに置いて外部の声をシャットダウンして自分に取って都合の良い世界を作る事は居心地は良いけれど、

 

その内、安定し過ぎた反動で「煮詰まってくる」ように思える。

それは窓を閉めて煙草を吸う煙モクモク状態だ。

 

だから、ペリーが来た時に人々は

新しい何かを期待して窓を開けたんじゃないのかな。

 

そういえばブルーハーツの曲で

「窓を開けよう」というのがあった。

 

今日はそれを聴いて寝よう。

 

 

 

将棋道場に行ったのに中に入らなかった日VOL1

昨日は休みだったので予てより行きたかった電車で30分くらいの道場に行こうと計画を練っていた。

 

因みにここで将棋道場知らない方に”システム”の説明をすると

老若男女誰でも楽しめるゲーセンに近い場所で違う所は”先払い”で席料を納め

後は”自分の棋力”を道場主に申告すると

自身の実力に近い方とマッチングしてくれ、時間が許す限り何度でもプレイ出来るという場所なのだ。

 

で、前日の深酒を避け

「昼くらいに起きて近くのトンカツ屋で少し高いヒレカツ定食を食べてしっかりと腹ごしらえをしてから戦に臨む」

という楽しい計画を練っていたのだ。

 

つまり

 

1 まず前日の深酒を避ける

2 昼前くらいには起きる

3 少し高いトンカツ屋で腹ごしらえをする

 

4 電車に乗る

5 道場で将棋を指す

 

という順番だ。完璧だと思っていた…

 

結果から言うと3までは予定通りすんなりと定跡通り意気揚々と進んでいったのだが、

 

読み抜け発生!

 

スマホの充電が2%しかない事にヒレカツを食べ終えた後に気付いたのだ。

 

あちゃ〜

 

このまま食事を終えた後、

電車に乗ると充電が切れスマホのナビが使えない事により駅から道場への道程がわからない。

 

1と2の間に

スマホの充電をする」というのが抜けていたのだ。

 

気を取り直してここから最善手を考えてみようと思った。

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伯父にリベンジした

遠方の地に住んでる父方の伯父が実家に滞在している。

理由は老人ホームに居るばあちゃんがいよいよかという感じだからだ。

(うちの親父の近所にある)

 

その伯父には昔、将棋でコテンパンに負かされた事があった。

それが、ずっと悔しくて心に残っていたのだ。

その当時の伯父曰く「アマ二段くらいはあるからな〜もっと強くなれよ」とか言われたのも覚えている。

 

で、昨日実家にリベンジしにいったのだ。

将棋盤はあったけれど駒は無かったのであらかじめ任天堂製の駒を用意しておいたのだ。

 

伯父に挨拶すると

 

伯父「おう〜〜!久しぶりに将棋でもするか」

 

「よろしくお願いします。」

 

結果から言うとボコボコにしてしまった。

途中弱過ぎて「なんだこのジジイ」とかも思ってしまった。

 

悲しい

 

最初ニヤニヤしてた伯父が狼狽して

 

「最近は”囲碁”しかしてない」と言った。

 

寂しい

 

でもね、最後に伯父はハッキリと

 

「勉強させて頂きます。もう一度いつかお願いします」

 

と言ったのだ。

 

伯父のリベンジが待ち遠しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楽と楽しい

初めての体験というのはなかなか一歩踏み出せなく億劫だ。

なんせ「面倒臭い」

慣れてる「確定された間違いのない楽しい」モノに自分はいきがちで

 

例えば、食で言うなら「唐揚げ弁当」は鉄板だ。

なぜならそこには「過去美味かったよ経験」がある。安心する。

穏やかに休日を過ごせるのは間違いない。

”ざんばら弁当”という今まで聞いた事がない名称の食べ物が売ってたとしてもまず「なんやねんそれ」が自分は先立ち選ばないのだ。

 

それは”楽”だ。

 

甲本ヒロトは言った。

 

“楽しい”と“楽”は違うよ “楽しい”と“楽”は対極だよ 
楽しいことがしたいんだったら 楽はしちゃダメだと思うよ 
楽しようと思ったら 楽しいことはあきらめなきゃダメだね  
ただ 生活は楽な方が絶対いいと思うよ でも人生は楽しい方がいいじゃん
生活は楽に 余計なことには気をとられず 人生は楽しく。

 

人生をテーマパークだとすると

最高に楽しい一個の乗り物にずっと乗り続ける自分と新たな乗り物に乗りたいという貪欲な自分も居る訳で

 

その辺をバランス良く

 

過ぎたるは尚及ばざるが如しで過ごしたいですね。

 

 

 

 

 

 

観る将

観る将という言葉を最近知った。

 

観る将とは「将棋を観る専門で自らは指さない将棋ファンのこと。」

と定義されている。

 

これを知った時に「はいはいはい!俺これ!俺観る将!観る将最高!」となったのだが、

あ、でも指すのも好きだからちょっと違うのかと思い「観る将兼指す将」なのかなあと。けれど観る6:指す4くらいの比率なので大まかに言うと観る将なのだろう。

というのも実際に将棋を指さないと「理解出来ない」事が自分の場合はあるので

観る将になるために指す将をしてるという感じか。

 

そういえば自分は「格闘ゲーム大会の配信」を観るのも好きで最近ではプロゲーマーの方達も海外大会にガンガン参戦しているので時差的に深夜だったり早朝だったり観れない事もあるが、観れない時は後で録画とか動画サイトに上がってないか調べたりしている。

 

最近ではストリートファイター5というゲームで自分が好きなプロゲーマーがやってるので、少しでも理解したくてXBOXやらPS4を買ったりした。

ちなみにこのストリートファイター5というゲームの世間的な評価は2とは違い(スト2は知ってる方も多いだろう)

ロード時間も遅いし最悪だった。

 

けれど自分的にはやる将専門ではないので観る将の比率が高いという事でさほど気にならなかったのだ。

 

けれど難しいもので、観る将やる将を多ジャンルに渡ってやると今度は時間が足りなくなってきて一歩も身動き取れなくなってきて分刻みのスケジュールをこなさないといけなく楽しいけれどヘトヘトに疲れて、何やってんのかよくわからなって寝る時もあって。

 

結論から言うと楽しむのもパワーが必要なのかな。

明日はニンニク食べよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参りました

将棋では相手に「負けを悟った側」が

「参りました」と言わない限り終わらないというのがあって、若い頃ネット将棋を自分でやって負けまくって

絶対にそれだけはやってはいけない「回線切り」もめちゃくちゃやってて、

パソコンをぶっ壊しかけて、何とか踏み止まり、何で”踏み止まれた”のかな?と思った時にやっぱり「将棋が好き」なんだなあと改めて思う訳で。

 

将棋の1番素晴らしい所は

「負けを自分で認める」

自己肯定を今まで自分はしてたからパソコンぶっ壊そうと思ったのだろう。

 

谷川九段の言葉

 

「負けました」
といって頭を下げるのが、
正しい投了の仕方。

つらい瞬間です。
でも「負けました」と
はっきり言える人はプロでも強くなる。

これをいいかげんにしている人は
上にいけません。

 

僕は、将棋以外にも大喜利が好きで

ネット大喜利で「参りました」と頭を下げた人が発した言葉を未だに覚えている。

 

自己肯定ではなく自己受容

 

偉大な先人達は自分の「負け」「至らぬ点」を理性的にきちんと分析し、「受け入れて」未来への糧としてるのだなあと

 

強くなりたい