大喜利という趣味は会話が苦手になる

大喜利は楽しい。

それは俺も知っている。

ただ、日常生活において「会話がおかしくなる」

という職業病ならぬ趣味病というのがある事を知ってるだろうか?

これは大喜利の構造を理解すればすんなり納得できると思う。

 

「"お題"があってそれに対してじっくり考え"答える"」

 

この構造は絶対に「対応型」にならざるを得ない。受け身だ。いや、自分が意識して変えない限り対応型受け身になっていく。

俺の意見とか感想ではない。

1+1は2みたいな話だ。

絶対にそうなる。

しかも大喜利をやればやるほど対応型受け身会話になっていく、怖くないかい?

 

会話ってのは骨髄を言うと

 

「リズム」

 

内容よりも"ノリ"とか"テンポ"が重要視される場面が多いのだ。

俺は大喜利の人に会ったり大喜利の人同士が会ったりする所を今まで何度となく見てきた。

これは衝撃的な事実だが

 

大喜利の人と話すと

 

 

 

 

ワンテンポ遅い

 

 

 

じっくり考えるがゆえ世間一般と"ズレてる"

 

 

 

そして、対応型のあまり

 

 

自ら口火を切ったり出来ないししない、

 

 

お題というの名の相手側のアクションを待つようになる。

謎の睨み合いが始まるのだ。

 

他の趣味の人では起こり得ない事が大喜利という趣味を選んだばっかりに起こっている。

 

だから、それに気づいた人達はいつしか大喜利を離れ、世に出ていった。

漫画を描いたり、小説を書いたり、芸能人になったり、有名人になったりだ。

 

大喜利の良さはそういった"外"に出た時に最大限発揮されるような気がする。

発想力だったり洞察力を経済活動、日常生活に活かせてる。

 

ツッコミの達人になった芸人も居る。

 

ツッコミはかっこいい。人を弄って、自分はかっこいいままで居られる。

たけし松本の対談本"コマネチ"によると昔のコンビの

ボケ:ツッコミのギャラ比率は6:4だったらしい。

ええかっこしてる奴はギャラが低いと昔の人は納得したんだよな。

今の時代、みんながみんな

"ツッコミ"に回りたがる気がしてならない。

残念。

多種多様性を重んじる時代はツッコミは無くなると予言しておこうか。

これについては「ツッコミが無くなる世界」というタイトルで別に書きたい。

 

ただ、それらの流れを知ってか知らずか自ら「お題」になるような人間も知っている。

俺はそういう人間を尊敬してる。