骨折した思い出

忘れられない痛みをたまに思い出す、骨折だ。

 

骨折した事ある人はわかると思うけどめちゃくちゃ痛い。

 

あれは小学三年時の夏休みだった、早朝のラジオ体操で神社にみんな集まって始まるまでの空き時間になぜか神社にあったブランコから立ち漕ぎで飛ぶ遊びが流行った。

自分もブランコから調子に乗って「うぇ〜い」と馬鹿な声を叫んで飛んだら思いの外、アッパー気味に高く飛んでしまい着地時に右手をついたら全身に電気がビリビリ激痛が走った。

 

瞬時に自分が感情としてよぎった事はラジオ体操に集まっていたみんなにバレたらカッコ悪いなとなぜか思ったのを今でも覚えてる。

無表情で突然帰るわとぶっきらぼうにみんなに言い「え?なんでなん?」という声を背中で受けつつ無視して痛さで半泣きになりながら家まで歩いた。

 

その時の家までの遠さと言ったら痛さと悲しさで永遠にも感じるほどだった、歩いて5分程の距離なのに。

 

なんとか家に辿り着き寝てる両親を起こした。慌てて起きてきた二人に右腕を見せたら父親がまず「スプーン型してるやないか」と発した。

その発言を聞き子供ながらに「スプーン型ってなんや?マジ?やば」と更に悲しくなった。

そして父親が今思えば非常にガサツに俺の右腕を触り始めた。

その瞬間、痛さの電気が走り「無闇に触らないでくれ」と思った。

母親は病院行かなあかんなと言い、車で隣りの市のデカい病院に向かった。

デカい病院なら大丈夫やろと思ってたらそこの先生が親父以上にめちゃくちゃガサツに右腕を触り"親父"以上に痛くなった。

「これはまあ"綺麗に折れてズレてますね"」と先生が言い、そのズレを先生が戻そうとしてめちゃくちゃ激痛が走って泣きながら我慢してギプスを巻いてもらった。

「一カ月もしたら治るから」と言われ右腕にギプスを巻いた生活が始まった。

色々生活に支障をきたしたのだが覚えてるのは大好きなゲームが出来ない事にイライラした事だ。

居ても立っても居られなくなり無理矢理ゲームをやろうとして左手で操作し右足でプレイするという荒技も覚えた。

夏休みが終わり新学期、ギプスを撒いた俺を見た幼なじみが荷物を持ってくれたのも良い思い出として残っている。

そして一カ月待ってギプス外してもらってもまだ痛かったので、違う病院に行ったら「これちゃんと繋がってないね」と衝撃的な事を言われ、

 

大人になったらちゃんと病院は選ぼうと思った。

 

空手黒帯の人達に正拳突きした思い出

小学一年から三年くらいまで空手道場に通っていた。

なぜ通い始めたのかは覚えていない。

友達の兄さんが空手やっていてなんとなくやるか?みたいな事を言われて自分なりにある程度好奇心があってみたいな流れだったと思う。

 

親と一緒に空手道場に行った初日の事は今でもよく覚えている。

空手道場と言っても体育館だった。

デカい体育館の半面を使ってそこを道場としてるわけだ。

もう半面はママさんバレーの人達が使っていた。

 

着くなり一番偉い先生が出迎えてくれた。

「おう、来たか。まずは靴下を脱ぎなさい」

靴下を脱いで親に預けたらめちゃくちゃ怒られた。

「自分でちゃんとひっくり返しなさい」

靴下で怒られた。怖いなと思った。

流石、空手の先生だ。

帯を見るともちろん黒帯なのだが、めちゃくちゃ擦れていて年季が入っている。

近くに寄ると空手先生ぽい匂いがした、なんというか体臭と強さと体育館の匂いがミックスされたような匂い

夏の匂いに近いかもしれない。

 

さあ、空手道場初日

体育館に入ると50人くらいの道場生が居た。

 

調子に乗って来てみたものの、既にもう嫌だな、帰りたいなと思った。

 

まず初めに習ったのは"正拳突き"だ。

腰を落としグーに握った手を真っ直ぐ前に速く伸ばすと同時に「押忍」と声を上げる。

それを延々と繰り返して初日は終わった。

 

暫く空手に通う日々

 

半年くらい経つと"他流試合"というものがありみんながバスに乗って挑みにいく催しがあった。

 

自分 は闘わないけれど黒帯の先輩達の応援にいくのだ。

 

結果応援してた先輩達は他流試合で全員負けた。

 

空手の先生は激怒し、地元の体育館に帰ってくるなり

「おい黒帯以下のお前ら、黒帯の奴らの溝落ちに正拳突きしていけや

 

いきなりそんな事言われた僕たちは面食らったけれども先生が言われた事には逆らえない。

 

黒帯の先輩達を白帯の俺たちが順番に正拳突きしていく。

 

途中、幼なじみの黒帯兄さんの腹を正拳突きした時に「ヒラ3負けてごめんな」

とか細い声で言われ自分も泣きそうになった。

 

それから暫くしてその体育館でやってた空手道場はなぜか"エアロビクス"を取り入れて、黒帯の先輩達にキレてた先生達がエアロビクスの女先生の身体を見てデレデレしてるのを子供ながらに見てしまい、ここはもうダメだと空手をやめる事を決意する。

 

 

更新をしたい

更新って良いと思う。

 

前からブログを更新したいなってずっと思ってた。

 

でも出来なかった。

パワーがいるからだ。

パワーがあんまりなくなっていた、文章書くってしんどい。更新てしんどいよ。

 

けれど今は言いたい事があったら発信出来る時代なのに発信しなかったらこれは"生きてる"のに勿体ないなあとなんとなく思った。

 

ああそっか今、俺は生きている。

更新は生きている者の特権だ。

死んだ人達は更新したくても出来ない。

亡くなった桶田敬太郎Twitterは全く更新されない。

呟いてくれよ!

死んだ自分の祖父母達の言葉は生きている時の言葉で止まっている。

更新されていない。

墓参りしても何も言ってくれない。

生前の優しかった笑顔のまま更新されていないのだ。

 

生きてるものは更新していかないともったいない。

なので更新してみた。

無口だった

今では少しは喋るようにはなったけど昔は本当に喋るのが苦手で頭の中がモヤモヤモヤモヤしていた。

言葉が浮かんでこないのだ。

誰かとどこかで二人きりになったらもう大変だ。何話して良いのかまるでわからない。緊張して顔真っ赤になって鼻血まで出したりした。

「顔赤いよ」と指摘され更に顔が赤くなる始末だ。

で、自分自身でも無口で良いと思っていた。

そこは相手に任せようと、そこはもう無理なんだ自分には、とかずっと悩んでいた。

相手の言葉に対応して"受け身"で対応すれば馬鹿にされる事は無いなと、

自ら話すと大抵笑われたり馬鹿にされたりしてきた。

それならば、対応型で生きれば良いではないか。

そうすれば居心地が良く生活出来るじゃない。

ずっとそう思って生きてきた。

人に対しては「察してくれ」と思っていた。察しない奴は馬鹿だなと本気で思ってた。今は喋りかけんなよと。察しろよ!空気読めないのか?

最低だった。

 

月日が経ちそんな自分が心底嫌になった。そのきっかけは"本"を読みまくったり映画を見まくったりしたからだと思う。当時無職だったからそうやって言葉を知った。

言葉を知って辿々しくはあるが相手に伝えれるようになってきたように思える。

すると相手の理解力不足では無く自分の説明不足だった事がだんだんわかってきた。

他人の頭の中はわからない。

わからないけど、いやわからないからこそ自分が出来る精一杯で伝える必要があるのではないか?

 

そうしないと相手に気を遣わせてしまうじゃないか!

 

今の俺は昔よりは作文も書けるしこういう感じでブログも書ける。

察してくれなんて言う傲慢な自分はもう居ない。

精一杯、うるさいなと思われるくらい話したいと思っている。

そうじゃないと人間に生まれてきた意味は無いではないか。

 

暇の方が好き

暇が好きだ。自分は"暇率"が人より高いように思える。それは暇な状態が昔から好きで暇を追求してきたからだ。

暇の何が好きかと言うと「あらゆる選択肢が残されてるように思える」という点と「楽」という点だろう。

例えば何をやるにしても暇が無いと何も出来ない。

文章を書いたり映画を見たりする事も銭湯に行ったり配信したりという自分が好きな行動が全て暇があれば可能状態になる。つまりワクワク感が持続されるのだ。

大昔の哲学者は暇だったという話を聞いた事がある。

ソクラテスなんかは暇だから色々な人達と生涯"対話"し続けていたらしい。これは有名な逸話だ。

「楽」でいうなら寝るにしても暇が無いと寝る事すら出来ない。

寝る事は凄く重要な事だ。寝ないと病気になる。

 

暇の反対に「多忙」という状態がある。

この状態は自身苦手過ぎて辛い。

忙しいと精神状態がストレスMAXであらゆる事が自分の思い通りにならなくなりミスも多発してしまう。

そして酒量も増えてしまうという悪循環のコンボをクリティカルヒットで貰ってしまうのだ。

対処法として色々な物をなるべく削ぎ落とし効率化していくというものだろう。例えば仕事で言うなら無駄な作業と必要な作業に分けてやっていく。

悪い言い方をすると「手を抜く」という事だ。

でも、その手を抜くという事をやらないと自分自身では「参ってしまう」という事を知ってるからやらざるを得ない。

仕事について少し言うと仕事とは自分の中ではボランティアつまり社会的使命に近い義務作業という認識だ。

ボランティアという認識で仕事をしていてお金を貰えるというのはラッキーな事だと本当そう思う。

稼ぐという事と仕事は切り離して考えているのだが、これは長くなるので別に仕事という物について書きたいとは思っている。

プライベートで言うとやはり選択して色々な誘いやらを"断る"という事も暇を作り出す為には重要だ。自身の中で優先順位を決めて断っていく。そしてその優先順位は自分の中で日々変化していくものだ。

 

こうしてる間にも時間は刻一刻と経ち今年一発目の仕事が数時間後に迫っている。

文章を好き勝手気ままに書くという好きな事が出来たので熟睡して無事社会的使命を果たせる事に違いないだろう。

自分の中でそれはもう確定事項なのだ。

スーパー銭湯

スーパー銭湯に最近よく行く。

行くのは大体休日の夕方だ。

ゆっくりと歩いて40分くらいの距離をウォーキングも兼ねて歩いていく。

35分くらい歩くと木造の大きな平家建ての建物が見えてくる。

その平家を囲うようにして田んぼがありそれがお堀に見えて武家屋敷にも見える厳かさすら感じる建物。ここに今から自分が入れるなんて何か誇らしい気持ちになる。

館内に入ると靴をロッカーに入れ100円を入れ鍵を回す。

床は板張りのフローリングで歩いてて気持ちが良いのでワクワク感が加速する。

そして、館内にあるマッサージ屋を横目に見ながら券売機に向かう。

 

券を買ったら受付の人に渡しカメラ体温計で平熱を確認して男湯と書かれた青の暖簾を潜る。

さあ着替えだ、これには少しコツが要る。

後でお金が返ってくるタイプのコインロッカーに"先に"100円をセット"しておくのだ。

こうする事により着替えた後に鞄にさっき閉まった財布から硬貨を取り出さなくて良い。通い慣れた男の職人技、匠。

そして、いよいよ銭湯内部に突入していく。武器はフェイスタオル一丁だ。

かけ湯で清め、そして早く湯船に浸かりたい気持ちを抑えながら身体を洗う。

身体を洗うと"前菜"として薬草サウナに向かう。

サウナにはもう一つ普通のがあって二種類あるのだが、何となく薬草のが得した気分になるのでそっちを選んでいる。

中にある椅子に腰を掛け12分時計に目をやり12分入ろうと自分に誓い備え付けのテレビを見る。

大して興味が無くても絶対見る、これは鉄則だ。テレビを見ない12分はあまりにも長い。

無事に12分入ると達成感で心が満たされる、ガッツポーズしたい気持ちを抑え身体を拭いてから水風呂に入る。

つい先日まで水風呂に入れなかったが、水風呂経験者の「水風呂は勢い」というアドバイスを信じて勢いでいったらイケたのだ。ありがとう水風呂先輩。

で、次に向かうは"メインディッシュ"の露天風呂だ。

露天風呂は3種、薬湯、炭酸湯、マイクロバブル風呂とあってそれぞれ効能が違う風呂達を堪能する。

そして身体が温まった所で露天に備え付けのデッキチェアに横たわる。

視線の先には空が見える。

極上の瞬間だ。来て良かったと心から思える。

 

それらを繰り返しながら今度は最後の仕上げの"デザート"として内風呂に向かう。

ジェットバスが中でもお気に入りでこれはマッサージ効果もある。

足の指の隙間にジェットを合わせると未知の快感に襲われる。

 

そしてシャワーで身体を洗い更衣室の冷水機で水を飲む、この水がまた美味いし真夏の部活の時に我先に群がる光景も思い出す。扇風機に当たり身体の火照りを解消し身体を拭き着替えて髪を乾かしてまた暖簾を潜る。

そして館内の椅子に座って暫くボーっとする。

 

で、最近気づいた事がある。

 

スーパー銭湯

「なぜ、こんなに居心地が良いのだろう?」

 

この答えが最近わかったのだ。

 

まず、居心地が良い理由として匂いは挙がる。

人々の石鹸やシャンプーの匂いが館内に充満している。

もう一つは館内に居る人達の声がみんな小さい事だろう。

ガヤガヤしてたり大きな声を荒げたり喧嘩したりを見かけた事がない。

なぜか?

 

多分、"みんな気持ち良い"からだろう。

 

気持ちが良いって事は良い事だと思う。

居心地の良さは気持ちが良い人々の集まりによって形成されていたのだ。

もし天国があるとしたらスーパー銭湯のような場所なんだと思う。

 

そして、最後の仕上げに無重力マッサージチェアに座り濃いカルピスを買って後ろ髪を引かれながら外に出る。

辺りはもう暗い。

田舎の夜道を歩いて帰る。

虫の声と夜風がすこぶる気持ち良い。

帰り道は少し感傷的な気分になったりもする。

昔の恋人とスーパー銭湯行った事を思い出す。

待ち合わせの時間を合わせて椅子に座ってると決まって少し遅れて来る彼女の笑顔。

気持ちが良い時に浮かぶ思い出は大抵、良い時の方だ。

 

そして家路に着く、

また絶対行くと誓いながら